【おすすめコース1】かつての繁華街を歩く

更新日:2024年04月11日

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およそ250年にわたって栄枯盛衰を繰り返してきた江戸時代。多くの大名たちが自藩から江戸へと赴く中、ここ滑川市の海沿い(現在の瀬羽町、大町など)は、北陸街道としてかつてない賑わいを見せた。 参勤交代制度が鳴りを潜めてからというもの、街の賑わいは陰ることなく、明治期に入ってからは交通の要衝として更なる発展を遂げた。 

養照寺

養照寺

養照寺(囲い設置前)

 スタート地点は瀬羽町通りから一本入ったところにある、国登録有形文化財にも指定されている「養照寺」の前。 養照寺は加賀藩の本陣(藩主の宿泊・休憩施設)となった時期もあり、天保九年の高月焼といわれる火災に見舞われるも、数年後には無事に再建。 現在の本堂は横町の堂宮大工・岩城庄之丈(いわき しょうのじょう)によって建てられた。

旧宮崎酒造店舗兼主屋

宮崎酒造

旧宮崎酒造店舗兼主屋

養照寺の前の道をまっすぐ進んだ先に、当時の繁華街であった瀬羽町通りが姿を現す。  道の左手に若干見えているのが「旧宮崎酒造店舗兼主屋」で、現在は建物を利用したシェアカフェが人気なうえ、「なめりかわランタンまつり」の会場としても毎年多くの観光客を集めている。

菅田家住宅主屋

菅田家

菅田家住宅主屋

旧宮崎酒造から出ると、真正面に昔ながらの丸型ポストが目印の住居、「菅田家住宅主屋」が現れる。 上げ下げすることによって開閉する蔀戸(しとみど)が特徴的なこの住宅で、菅田家は数代にわたって塩・木材・木綿・田畑など数々の商いを行った。

有隣庵(旧土肥家住宅)主屋

有隣庵

有隣庵(旧土肥家住宅)主屋

 菅田家から中川方面へ進むと、今度は葡萄(えび)色をした立派な建物と、そのはす向かいに味のある日本家屋が迫ってくる。 葡萄色の建物は「有隣庵(旧土肥家住宅)主屋(慶應3年)」。大名の参勤時などには30室ほどを設えたという豪商ならぬ豪宿屋で、明治時代に入ると反物屋として、そしてそれ以降は富山の伝統でもある売薬業に携わったとされる。 住宅の上部には採光のための小さな櫓が備えられている。

城戸家住宅主屋

城戸家

城戸家住宅主屋

 有隣庵のはす向かいに位置する家屋は「城戸家住宅主屋」。19世紀前半に瀬羽町へ移り住んだ城戸家は味噌や醤油の製造・小売り、金物類の小売りや貸鍋を営んでおり、出身地を由来とした神田屋(じんでんや)という屋号を使用していた。

中川河口(船着場)

中川河口

中川河口

江戸時代、加賀藩の年貢米が集まるなどとして物資の集積場ともなった、滑川市を縦横無尽に駆け巡る河川。 視線の先には広大な富山湾が待ち構えており、湾に近づくと遥か向こうに能登半島の姿を拝むことが出来る。

廣野家住宅主屋

廣野家住宅主屋

廣野家住宅主屋

廣野家住宅主屋は、養照寺と同じく、建築・意匠を施したのは岩城庄之丈。入母屋造の屋根と出格子が美しく、寺社建築に見られる技法が用いられるなど、周囲に比べるとかなり特徴的な外観となっている。 

廣野医院

廣野医院

廣野医院 

 廣野家の真隣に位置するのは廣野医院。こちらも特徴的な外観として、外壁をモルタルで仕上げており、昭和初期に流行った当時の空気感が色濃く残っている。 平成10年まで開業し、その後は廣野家と同様、国登録有形文化財に指定されている。

滑川本陣跡

滑川本陣跡

滑川本陣跡

最盛時には六千平方メートルもの敷地を保有していたとされる本陣(御旅屋)の跡地。現在は本陣があったことを記す立て看板のみとなっているが、滑川宿が勢いづいていたころは問屋場があるなど街の中心として大きく発展し、格式高い建物が林立する地域となった。

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