市のおいたち

更新日:2020年03月18日

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市の南東に位置する台地上から、旧石器時代のものと思われる石器や、数多くの縄文時代の住居跡、石器、土器が発掘され、数千年の昔から人びとが住んでいたことを知ることができる。

また、上市川河口付近からは、弥生時代の石器と土器が出土し、本江には全国的にも珍しい古墳時代初期の五角形をした大型住居跡(県指定文化財)が発見されている。

奈良時代、越中国守大伴家持は、春の新川郡を巡回し、早月川を短歌に詠んでいる。平安時代から室町時代にかけて、約300年間続いた京都祇園の荘園(堀江荘)は、上市川両岸に広がる穀倉地帯にあったが、戦国時代、在地武士の成長によって、その手中に移った。

南北朝対立のころや群雄割拠の戦国時代、滑川の地は、しばしば兵馬が行き交い、戦乱の場となって焼討ちにあうなどしたが、やがて豊臣秀吉の天下統一とともに、町は徐々に整備され、文禄4年(1595)新川郡は、前田利家に下賜され、加越能3国はすべて利家の領有するところになり、滑川もこの時以来明治に至るまで加賀藩主前田氏の支配下に置かれることになった。

慶長20年(1615)滑川宿送人足・伝馬の御朱印状が出された。また、寛永2年(1625)大町の綿屋九郎兵衛は、藩より御旅屋を仰せ付けられ、のち本陣に定まり、藩主の休泊に使われた。北陸街道沿いにある滑川町は、宿駅としての機能を持ち、物資集散の地として発展していった。そして「町方」とともに、船積みおよび漁業などの機能を持つ「裏方」があった。

明治4年(1871)廃藩置県により越中は、金沢県と富山県に分けられ、滑川は金沢県に属したが、その後、行政区域も名称もめまぐるしく変わり、明治16年(1883)石川県からの分県運動が成功して、現在の富山県ができた。明治22年、市制及び町村制の施行により、滑川町は、高月村、領家村、寺家村、下小泉村、田中村を合併、また、村部は、大字村をそれぞれまとめてひとつの村とした。浜・早月などを冠称とした加積村がそれである。

昭和28年11月1日、滑川町と浜加積・早月加積・北加積・東加積・中加積・西加積の各村が合併して新しい町となり、翌29年3月1日市制を施いた。昭和31年6月1日、上市町に合併していた旧山加積村のうち本江ほか4集落を編入して現在に至っている。

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