所蔵資料紹介 Vol.11 「岩城家文書」の算木

更新日:2024年01月24日

ページID : 0478

Vol.11 「岩城家文書」の算木

和算で使われた計算用具が算木〔さんぎ〕です。和算とは、日本に古くからあった数学のことですが、言葉自体は新しいものです。明治時代直前に西洋から新しい数学が輸入され、これを洋算・西算と呼んだのに対して、在来からの数学を和算と言いました。もとは中国から伝わったこの学問が、大きく独自に発展するのは江戸時代のことです。幕臣の関孝和(寛永17年・1640(推定)~宝永5・1708)が連立方程式や高次方程式を和算で代数的に解く方法を発明したことによって、急速に発達しました。いろいろな和算の流派があるなかで、関孝和の学問を継承し、発達させた一門を「関流」と呼びます。越中にも優秀な和算家が多く存在しました。

方眼の目に漢数字が書かれ、赤と黒の算木で数式 x²+5x-644=0を記した算盤〔さんばん〕の例の画像

算盤〔さんばん〕の例
(数式は、x²+5x-644=0)

和算家たちは、加減乗除(足し算・引き算・掛け算・割り算)と開平(平方根を求めること)の計算は算盤〔そろばん〕を使いましたが、方程式を解くために算木と算盤〔さんばん〕を用いました。一般的に算木は赤と黒に着色され、赤は正の数(プラス)、黒は負の数(マイナス)を表します。3ミリメートル四方、長さ35ミリメートル程度の方柱で、これを方眼の目の算盤〔さんばん〕に並べます。原則として1~9の数字は、一位・百位・万位などは縦式、十位・千位などは横式を使って算木を置きます。0のときは空欄です。

縦式と横式の1から9の数字の算木の並べ方が示された表

算木の並べ方
もっと桁数が多い算盤もあります。

数式、x²-4225=0を実際の算木で表している写真

「岩城家文書」の算木
(数式は、x²-4225=0)
解き方は下記の解き方をご確認ください。

当館が所蔵する「岩城家文書」(本コーナー Vol.3 飛越地震災害絵図参照)は、滑川や越中だけにとどまらない活躍を見せた寺社建築を得意とした大工の家に伝わった資料群で、ここに算木も含まれています。3代目の庄之丈は、慶応2年(1866)から明治4年(1871)まで、下砂子坂村(現富山市水橋下砂子坂)の関流和算に秀でた久世源作(関流八伝免許)から和算や測量学を学び皆伝したといいます。このことから「岩城家文書」には算木が含まれており、幕末~明治時代前期頃のものと推測されます。赤(白木)95本、黒96本の算木が残っており、すべて4ミリメートル四方、長さ30ミリメートルの大きさです。

富山県内では、石黒信由とその子孫に関する「高樹文庫資料」(一般財団法人高樹会蔵、射水市新湊博物館寄託)に算木が残っていることが知られていましたが、「岩城家文書」の算木が県内2例目のものと確認されました。

ダービーハットを被り、蝶ネクタイを付け、スーツにコートを羽織って写っている岩城庄之丈のセピア色の写真

岩城庄之丈

岩城庄之丈は京都の東本願寺や知恩院、東京の築地本願寺や靖国神社御門の製図や設計、建築に携わった人物です。他にも富山県内では射水神社(高岡市)や日枝神社(富山市)、滑川でも養照寺・櫟原神社・廣野家住宅をはじめ多くの建築に関わっています。滑川に居を構えながら、伊藤平左衛門・木子清敬・伊東忠太といった、建築界の第一人者たちから仕事の依頼を受けるなど、非常に高い評価を得ていました。また、若い頃には地租改正をはじめとした測量の仕事にも多く従事しています。

どうも庄之丈は製図・設計を得意としていたようであり、建築物を設計する際の緻密な構造計算や測量のときに算木を使っていた可能性が考えられます。庄之丈の優れた仕事は、大工としての一流の腕だけではなく、高度な和算の能力によっても支えられていたのかもしれません。この小さな算木も、庄之丈の技能・技量の高さを裏付ける貴重な資料と言えるでしょう。

(文責:学芸員 近藤浩二 2015月12月1日)

この記事に関するお問い合わせ先

博物館

〒936-0835
富山県滑川市開676番地
電話番号:076-474-9200 ファクス :076-474-9201

メールでのお問い合わせはこちら