所蔵資料紹介 Vol.7 ホタルイカと滑川

更新日:2024年01月23日

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Vol.7 ホタルイカと滑川

滑川市と言えばホタルイカの街として全国に広く知られています。皆さんはこのホタルイカが、いつ頃から、どのようにして有名になっていったのか、また、「ホタルイカ」という名前の歴史などをご存知でしょうか。今回はこのホタルイカに関する資料をご紹介していきたいと思います。

青白く発光している5杯のホタルイカの写真

発光するホタルイカ
〔滑川市〕

毎年3月1日に解禁されるホタルイカ漁のニュースは、富山湾の風物詩として、滑川市民だけでなく、富山県民にとっても春の訪れを感じさせるものになっています。常願寺川右岸(富山市水橋町)から魚津港にかけての海面は、大正11年(1922)に国天然記念物、昭和27年(1952)には「ホタルイカ群遊海面」として国の特別天然記念物に指定されました。この中心が滑川であり、青白く発光する神秘的な様子がホタルに似ていることに因んで命名されたことは有名な話です。産卵のために深海から富山湾沿岸に押し寄せてくる体長4センチから6センチのホタルイカは、体中に1000個もの発光器を持ち、青白い光を一斉に放ちます。

漁師たちが網にかかった青白くひかるホタルイカを引き上げる様子を観光船から見ている観光客たちの写真

現在のほたるいか観光
〔滑川市〕

この神秘の発光を見学する「ほたるいか観光」は、4月上旬から5月のゴールデンウィークまでの早朝、遊覧船に乗って定置網の引き上げを観覧するもので、全国から訪れる人たちで、毎年大変賑わっています。このように、滑川市にとってホタルイカは重要な漁獲資源となっているだけではなく、観光資源としても非常に大きな存在になっています。

「本町漁業の祖四步一屋四郎兵衛藁臺網を下ろして初めて小烏賊(螢烏賊)を漁獲したり」と書かれた『二大奇観』年表(部分)

『二大奇観』年表(部分)
〔当館蔵〕

明治時代から昭和初期にかけて滑川町役場が発行した『二大奇観』という冊子の年表に、天正13年(1585)に四歩一屋四郎兵衛が藁台網で初めて漁獲した、と記されています。これによって、天正13年がホタルイカ漁の始まった年として紹介されることがありますが、この話を証明する史料や明確な根拠がなく、伝説と考えられます。しかし、昔から富山湾でホタルイカが漁獲されていたのは間違いありません。

河崎家文書の一部に赤線が記されている画像

「金沢為登魚につき縮方等の控」(河崎家文書)
〔個人蔵〕

ホタルイカはもともと「コイカ」や「マツイカ」と呼ばれていました。この旧来の名称を確認できる史料が、滑川市指定文化財の「河崎家文書」のなかに残っています。安政5年(1858)の古文書(「金沢為登魚につき縮方等の控」)には、滑川沖の小村崎などの漁場で「小烏賊」が獲れることが記されており、翌6年の古文書には「小引網には、春は小烏賊がかかる」と書かれています。ここに出てくる「小烏賊」は漁期などを考えてホタルイカを指していると考えて間違いないでしょう。現在のところ、記録に現れた最古のホタルイカと言えますが、今後研究や調査が進めばまだまだ遡ることができると思われます。

縦長の紙に7行の文章がかかれてある「越中遊覧志」(部分)の画像

「越中遊覧志」(部分)
〔富山県立図書館蔵〕

さて、皆さんに馴染みのある「ホタルイカ」という呼び名ですが、これは明治38年(1905)5月、ホタルなどの発光生物の研究者だった東京帝国大学教授・渡瀬庄三郎が、研究のため滑川を訪れたときに命名したと言われています。しかし、明治20年頃の完成と推定される「越中遊覧志」という史料に「土地ニテ小烏賊ト云ヒ、蛍烏賊トモ呼フ」との記載があり、ほかにも明治34年の新聞に「蛍烏賊」と書かれた記事も見られます。このことは、渡瀬が滑川を訪れる以前から、地元では「ホタルイカ」という呼び名が存在していたことを示しており、研究者・渡瀬の影響力によってこの呼び名が定着して広まったと考えられそうです。

6冊の『二大奇観』が扇状に並べて置かれている写真

『二大奇観』
(最左が初版、最右が第6版)
〔初版・第2版・第4版は富山県立
図書館蔵、その他は当館蔵〕

これ以降、研究者・政治家・文化人たちの来訪が相次ぎ、滑川町は観光資源としてのホタルイカに着目しました。まず、明治42年(1909)に『二大奇観』という小冊子を編集しています。これは蜃気楼とともにホタルイカを、ほかでは見られない珍しい眺めとしてアピールしたものです。この『二大奇観』は好評を博したようで、内容の変更を行いながら、昭和8年の第6版まで作られました。

大正〜昭和頃のほたるいか観光の様子を写した写真

大正〜昭和頃のほたるいか観光
〔当館蔵〕

漁師たちが海岸でホタルイカの地曳網を引っ張っている写真

ホタルイカ地曳網漁(昭和前期頃)
〔当館蔵〕

カラーで絵が描かれた富山県滑川町の鳥瞰図

「富山県滑川町鳥瞰図絵」(部分)
高月浜に「蛍烏賊地曳場」、滑川沖に「蛍烏賊観覧場」の記載がある
(所蔵資料紹介 Vol.1参照) 〔当館蔵〕

本格的にほたるいか観光に乗り出した滑川町は、明治43年(1910)に最初の観覧船を2艘造り、明治45年には地元の立山新聞社と協力して全国の新聞社を観覧に招待しています。大正2年(1913)には高月海岸にアーク灯を設置してホタルイカ観覧場を整備しました。昭和10年(1935)頃は午前3時と午後8時に出発する遊覧船観光と、午後7時からの地曳網観覧が行われていたようです。

昭和9年には高月海岸での地曳網漁の様子がラジオで実況放送されるなど、滑川のホタルイカは全国に知られるようになっていきました。このような明治後期から始まる一連のホタルイカPRに尽力した仕掛け人が、当時滑川町の助役だった城戸與吉郎という人物です。

ホタルイカが掛かった網を引き揚げている漁の様子を屋形船から観光している観光客たちの写真

昭和40年代のほたるいか観光
〔『のびゆく滑川』(1973)より転載〕

地曳網を引き漁をしている様子を浜に設置された桟橋から観光している観光客たちの写真

昭和50年代のほたるいか観光
〔『市勢要覧1981』より転載〕

明治時代の終わりから昭和初期にかけて活況を呈していたほたるいか観光でしたが、戦時色が濃くなっていたことで、ついには途絶えてしまいました。しかし、戦争が終わると再開され、昭和26年(1951)以降は屋形船による遊覧で、8時から往復1時間というスケジュールで実施されています。この頃は観光客が船から「たも網」でホタルイカをすくうことができました。その後、昭和54年から61年までは和田の浜に設置された桟橋から見学する陸上観光に切り替わっており、遊覧船に乗って定置網の引き上げを観覧する現在のほたるいか観光は、昭和62年から始まったものです。なおホタルイカは、ブリ・シロエビとともに平成8年(1996)、「富山県のさかな」に選ばれました。

このように、滑川のホタルイカが全国的に知られるようになったのは今から100年ほど前のことであり、意外と歴史は古くありません。しかし、先人たちの努力もあって、滑川はホタルイカの街として広く知られるようになっていったのでした。

(文責:学芸員 近藤浩二 2011年9月13日)

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