所蔵資料紹介 Vol.4 滑川の村御印

更新日:2018年02月08日

Vol.4 村御印

江戸時代前期、加賀藩は高(収穫量)・免(税率)を記した年貢割付状を各村ごとに下付しました。この年貢割付状が「村御印〔むらごいん〕」と呼ばれ、ここに記載された内容が江戸時代を通じて年貢取り立ての基準となりました。村御印は、幼かった加賀藩5代藩主・前田綱紀の後見役として藩政を執った祖父・利常(3代藩主)が行った改作仕法〔かいさくしほう、改作法とも〕と呼ばれる農政改革のなかで交付されたものです。

慶安4年(1651)から実施された改作仕法は新川郡では明暦2年(1656)に完了し、その結果、一村平均免(1)〔いっそんならしめん〕と定免制(2)〔じょうめんせい〕が採られ、本途物成(3)〔ほんとものなり〕分と小物成(4)分を一紙に記した村御印(村御印御成替〔おなしかえ〕)が出されました。さらに加賀藩領で新京枡が採用されたことにともない、寛文10年(1670)9月7日付で利常の黒印を押した村御印(村御印御調替〔おととのいかえ〕)が交付されました。これにより村々の年貢が確定し、現在残る村御印は寛文10年のものがほとんどを占めます。宛所は「○○村百姓中」と村の百姓全体になっており、個々の土地所有者ではなく村全体の責任で年貢を納めるいわゆる「村請制」ということがよく分かります。

  1. 一村平均免:地味・地目などによって異なるべき村免(税率)を平均化して一種類にしたもの
  2. 定免制:作物の豊凶に関係なく毎年一定額を徴収する徴税法
  3. 本途物成:田畑に課せられた本年貢
  4. 小物成:本途物成以外の雑税
野尻村村御印

野尻村村御印

大窪新村村御印

大窪新村村御印

追分村村御印

当館では、吉浦村・野尻村・大窪新村(嘉大窪)・東福寺村・寺家村・追分村の村御印を所蔵しています。どれも寛文10年9月7日付のものですが、追分村だけは貞享3年(1686)4月16日の日付になっています。これは貞享元年に村御印が火事で焼失してしまったため、写しから再交付したからであり、そのため他の村御印とは異なって算用場(1)の印が押されています。

  1. 算用場:加賀藩の経理会計を担当し、村落支配機構の最上層機関
吉浦村村御印

吉浦村村御印

村御印の主な記載内容は下表の通りです。年貢率は土地の地味などを考慮して決められたため、村ごとに異なりを見せています。また、村によっては敷借米(1)〔しきがりまい〕の利足(利息)も書かれていますが、これは改作仕法が成就した明暦2年に免除になったと記されています。また夫銀(2)〔ぶぎん〕は年貢高100石につき140目、口米(3)〔くちまい〕は1石につき1斗1升2合と定められました。

  1. 敷借米:年貢皆済不能の村に藩が貸し付けた米。敷貸米ともいう
  2. 夫銀:労役負担を金銭で代納する税
  3. 口米:年貢収納担当者が徴収する手数料
表 村御印の主な記載内容
村名 村高 新田高 免(年貢率) 小物成 敷借利足
吉浦村 101石 - 48% 鱒役(1匁)、鮎川役(1匁) 1石9斗
野尻村 38石 3石 35% 山役(10匁) -
東福寺村 240石 1石 38% 山役(183匁) 2石6斗
追分村 319石 2石 51% 野役(59匁)、鮭役(1匁)、鱒役(2匁)、鮎川役(1匁) 3石9斗
大窪新村 32石 13石 31% - -
寺家村 86石 - 50数%(*) - 1石8斗

(*) 史料破損のため、一桁の数字が不明

 

村御印には田畑に課せられた本年貢以外の小物成(雑税)も記されているため、ここから当時の村の生活のようすを垣間見ることができます。

東福寺村村御印

東福寺村村御印

山から伐採される材木や刈り取った草などの収入にかかる税金である「山役」を例に挙げると、室山野台地の先端にあたる野尻村は10匁ですが、高知川流域の東福寺野台地と室山野台地の谷間に位置する東福寺村は183匁になっています。この額の差からは山林用益に対する依存度を窺い知ることができます。また、早月川下流域に位置する吉浦村は「鱒役」「鮎川役」が、追分村には「鮭役」「鱒役」「鮎川役」という川魚に対する小物成が賦課されており、農業のかたわら川漁を行っていたことが分かります。さらに追分村は「野役」も課せられていることから、萱や肥料となる草などを採取できる原野が広がっていたことも想像できます。

寺家村村御印

寺家村村御印

村御印の保管木箱

村御印の保管木箱
(手前:野尻村、奥:寺家村)

村御印は木箱などに入れて村の代表者である肝煎宅で大切に保管されていました。寺家村の村御印は他の村のものと違って大変痛みが激しいですが、これは大正7年(1918)に書かれた史料によると、天保5年(1834)の大火事の際、村の肝煎・喜右衛門が村御印を抱きかかえながら焼死しました。村御印の損傷は、この時の火と水によって受けたものだと記されています。なお、この喜右衛門の行動は、殊勝なる者として郡奉行から賞賛されたということです。また、この火事の際に蔵から御印を救出しようとして火傷を負い、後日亡くなった中町の松村屋宗右衛門の話もあります。これらの話からは、村御印がいかに大切に扱われてきたかが伝わってきます。寺家村の木箱には、上部と両側面に「嘉永七歳」「御印箱 寺家村」「甲寅 正月大吉日」と記されており、嘉永7年(1854)1月に作り直されたものと考えられます。

(文責:学芸員 近藤浩二 2010年6月4日)

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