所蔵資料紹介 Vol.9 滑川の引札

更新日:2018年02月08日

Vol.9 滑川の引札

引札〔ひきふだ〕とは、商店などの宣伝のために作られた広告物で、江戸時代後期頃から昭和前期頃にかけて用いられていました。当初は木版刷りでしたが、明治30年代になると大阪の古島竹次郎や中井徳次郎など大手業者による石版多色刷りの引札が大流行します。このような大手業者は、好きな図柄を見本帳から選んでもらい空白部に商店名などを印刷する方法を採ったことで、安価に製作することが可能になりました。
明治期以降は、特に「正月用引札」が流行し、絵柄には縁起物だけでなく、近代の風俗や技術を描き込んだものなども多く見られます。そして、すぐに捨てられない工夫として、略暦(りゃくれき・カレンダーに相当するもの)を組み込んだものや双六仕立てにしたものもありました。
ここでは、平成24年に寄贈された明治後期頃の引札16点のなかから一部をご紹介します。

煙草元売捌所 石川宗次郎

引札(煙草元売捌所 石川宗次郎)

瀬羽町で「煙草元売捌所」を営んでいた石川宗次郎の引札。明治37年(1901)にたばこ専売制が始まり、販売には大蔵省(専売局)→元売捌人→小売人の段階が定められました。元売捌人とは、たばこの卸商であり、基本的には各市・郡に1人ずつ置かれ、石川宗次郎は中新川郡全体のたばこ卸を担っていたと考えられます。

この引札は、豪華な磁石式電話で福徳の神とされる大黒(七福神の一人)と話す美人の図柄で、女性は美人の条件とされる富士額・色白・細面・柳眉・涼しげな目などを兼ね備えて描かれています。大黒の傍らには「初春に 便り嬉しき 電話かな」とあり、新年の引札ということを表しています。また、美人が手元に広げる電話帳には、「夷三郎」「大黒槌エ門」「金田福助」といったおめでたい名前の方ばかりが記載されています。
滑川町の電話開通は明治42年12月で、このときに43回線が設置されました。大正元年(1912)には70回線まで増え、石川宗次郎の電話番号は46番となっています。引札に電話番号が記されていないことから、明治40年代以前の資料と考えられます。

八百屋物・魚仲買商 濱西米次

引札(八百屋物・魚仲買商 濱西米次)

常盤町で八百屋物・魚仲買商を営んでいた濱西米次の引札。「四季美人双六」と題されたこの引札は、商店名の上に、「あいかわらすおひきたてを(相変わらずお引き立てを)」と書かれた扇子を持つ福助が描かれ、タイトルの通り双六遊びができるようになっています。双六の各コマに季節の行楽・行事が配されており、内容は「あいかわらすおひきたてを」に因んだものです。

例を挙げると、「あ…あやめ」、「い…いね苅」、「か…かい水浴」、「わ…わか菜つみ」、「ら…らんまん」、「す…すずみ」といったようになっており、当時の子どもたちはこのような引札でも遊んでいたのでしょう。また、「海水浴」に描かれた女性は袖付き水着を着ており、時代性も感じられます。
この引札の印刷業者は大阪の大手業者・古島竹次郎です。今回寄贈されたもののうち、印刷業者が記載されている引札の8割が古島をはじめとした大阪の業者によって印刷されたものでした。

石灰製造・肥料販売商 上代五郎右衛門

引札(石灰製造・肥料販売商 上代五郎右衛門)

早月加積村吉浦で石灰製造・肥料販売商を営んでいた上代五郎右衛門の引札。明治前中期頃、滑川町周辺の中新川郡で石灰の製造販売が始められたようで、明治後期の記録によると、吉浦海岸の2戸が年間3万貫(112.5トン)の石灰を生産販売していたとあります。そのうちの一つが上代五郎右衛門かもしれません。

この図柄は、帆船のバックに富士山が描かれ、7羽の鶴が舞うおめでたいものです。絵の横には明治43年(1910)の略暦も掲載されています。略暦とは、本暦と言われる省略事項のない基本となる暦から、日常生活に必要な事項だけを抜き出して作った簡略な暦のことです。

精米製造業 寺澤太七郎

引札(精米製造業 寺澤太七郎)

北加積村法花寺の精米製造業・寺澤太七郎の引札。明治後期に編さんされた「北加積村史稿」という資料によると、北加積村の産物は米が最も多く、米質や乾燥・精米の技術にも優れているとあります。

この引札は明治44年(1911)の略暦が大部分を占めています。上部の絵柄は、日章旗と旭日旗に当時の祝祭日が書き込まれ、中央の円内には小判を手に持ち俵に寄りかかる恵比須(七福神の一人)のバックに、釣り上げた大鯛とうずたかく積み上げられた財宝の山が描かれています。また、打ち出の小槌のほかに子どものイノシシ(ウリボウ)も見られますが、これは明治44年が亥年ということからでしょう。

金物商 高瀬栄吉

引札(金物商 高瀬栄吉)

鍛冶屋橋で金物商を営んでいた高瀬栄吉の明治44年(1911)の引札。中町と神明町の境を流れる大町川が北陸街道を横切るため、そこに架けられていた橋が鍛冶屋橋で、『滑川町誌』によると長さ4尺(約1.2メートル)、幅15尺(約4.5メートル)の小振りな橋だったようです。この橋があったことで、周辺の地域は鍛冶屋橋と呼ばれていました。江戸時代の初めに加賀藩の御用を務めた鍛冶屋が、この辺りに地子御免(免租)の屋敷地を拝領したことが名前の由来とされています。

この引札は全面が略暦のタイプです。また、商店名の記載欄を見てみると印刷ではなく手書きになっています。

ここで見てきたように、色とりどりのさまざまな種類の引札が作られていました。当時の人々は、このような正月用のおめでたい引札が配られることよって、年の瀬や新年の雰囲気を感じていたのでしょう。

(文責:学芸員 近藤浩二 2012月12月25日)

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